山梨県には、お寺や神社などの歴史ある建造物が多いイメージがありますよね。
約3万年前から人々が暮らしはじめたとされている山梨県。
自然豊かな山梨県では、のちの偉人たちがたくさん誕生しているんです。
そこで今回は、山梨県が誇る歴史的偉人を5人まとめました。
山梨県出身の偉人と偉業について知ることで、山梨県のことを今よりもっと深く知れて、魅力を再確認できるでしょう。
山梨県の歴史的偉人と聞くと、武田信玄を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
武田信玄は1521年に当時の甲斐国、甲府にある武田氏館の詰城である要害城(一説ではそのふもとにある積翠寺)で誕生します。
武田信玄は戦国時代を代表する武将として知られており、当時、武田軍の騎馬隊は最強として恐れられていました。
その圧倒的な強さは、のちに天下統一を果たす織田信長も恐れるほどだったとか。
武田信玄もまた、天下統一を目指して戦っていましたが、持病が悪化し、そのまま53歳で生涯を終えます。
甲府市には武田信玄を祀った武田神社があり、武田信玄を慕う人々によって1919年に建てられました。
武田神社は武田信玄ファンはもちろん、戦国時代をはじめとした歴史好きの方も多く訪れる観光スポットとなっています。
武田神社の境内にある宝物殿には、武田信玄にゆかりのある貴重な書物や太刀などが展示されており、戦国時代にタイムスリップしたかのような気分を味わえますよ。
武田神社は、武田信玄が最強と謳われたこともあり、勝負に勝つご利益があるとされています。
勝負事はもちろん、人生に勝つ、自分に勝つという勝運の御利益が得られるんです。
あなたも武田神社でお参りすると、人生の勝ち組になれるかもしれませんよ!
武田神社の詳細はこちらをクリック▶︎武田神社公式サイト
甲府市にある要害山では、要害城跡地として看板や石碑が建てられ、多くの観光客が訪れる場所となっています。
要害山の詳細はこちらをクリック▶︎甲府市公式サイト
引用:石橋湛山記念財団
石橋湛山(いしばしたんざん)は日本でいち早く民主主義を唱えたジャーナリスト、政治家です。
石橋湛山は東京都で生まれ、山梨県で幼少期〜18歳までを過ごします。
早稲田大学を主席で卒業し、東京毎日新聞社、志願兵を経て27歳の時に東洋経済新報社に入社。
28歳で記者、31歳で合名社員、37歳で取締役、40歳で主幹を務め、57歳の時に代表取締役社長に就任します。
石橋湛山は、当時帝国主義であった日本の風潮を批判し、自由主義・民主主義を唱えたことで知られています。
第二次世界大戦終戦後の1946年、大蔵大臣に就任し、東洋経済新報社社長を辞任。
大蔵大臣になったのも束の間、1947年には石橋湛山がGHQの要求に従わなかったとして公職追放を受けます。
1951年に公職追放が解除されると再び支持活動を開始。
1956年、石橋湛山が72歳のときに石橋内閣が誕生し、第55代内閣総理大臣となります。
しかし翌年1月25日、過労による急性肺炎にかかり医師から2ヶ月の休養を告げられると、2月23日付けで総理大臣を辞任、内閣総辞職を決定。
就任からわずか65日での退任となりました。
石橋湛山は、体調が回復してからも精力的に活動します。
中国やソ連をたびたび訪問し、友好関係を築くのに貢献しました。
1973年、脳梗塞のため88歳で生涯を終えます。
石橋湛山の詳細はこちらをクリック▶︎石橋湛山記念財団
引用:大村智記念研究所
大村智(おおむらさとし)は、熱帯地方の寄生虫による感染症の治療薬、イベルメクチンを開発したとして、ノーベル生理学・医学賞を受賞した化学者です。
大村智は、1935年7月12日に山梨県北巨摩郡神山村、のちの韮崎市で誕生します。
実家が大きな農家で長男として生まれたことなどから、後継として農作業を教え込まれており、勉強はほとんどしてこなかったそうです。
そんな大村智は高校ではスキーにのめり込み、大会にも出場したこともあるんだとか。
大学ではスキーの山梨県代表として国体に2度も出場しているんですよ!
大村智は1958年に山梨大学を卒業すると、東京都の夜間高校の教師となります。
そこで真剣に勉強する生徒に影響を受け、もう一度勉強に励み、1960年に東京理科大学大学院理学研究科に入学。
昼間は大学院生、夜は教師として働くハードな生活をしながら、1年の留年を経て1963年に修士課程を修了します。
大学院を終えてからは、山梨大学工学部発酵生産学科の助手として所属。
ワイン作りの際、酵母の力によって糖が一夜にしてアルコールに変わるのを見て、微生物の持つ力に興味を持ちました。
1974年、大村智は静岡県伊東市のゴルフ場の土から、新しい放線菌を発見。
この細菌による化合物を使い、アメリカの製薬会社と協力して、熱帯地方で多くみられる寄生虫が原因の病気、オンコセルカ症の治療薬「イベルメクチン」を開発するのです。
オンコセルカ症は河川にいるブヨに何度も刺されることで、回旋糸状虫という寄生虫により、皮膚のかゆみ、発疹などを招きます。
中でも幼虫が目から侵入してしまうと結膜炎になったり、最悪の場合は失明したりする感染症として恐れられています。
中南米や熱帯地域では、オンコセルカ症の患者が続出したことから、WHOは1974年からオンコセルカ症制圧プログラムを開始。
殺虫剤の散布などを行いましたが、効果は今ひとつだったようです。
この危機的状況を救ったのが大村智らが開発したイベルメクチンです。
1987年からイベルメクチンの無償提供がスタートすると、さっそくその効果を発揮していきます。
感性拡大に悩むアフリカの29ヵ国のほとんどで、2025年を目処に撲滅が予想されると発表されるまでの成果が出たのです。
この結果を踏まえ、2015年大村智らにノーベル生理学・医学賞が贈られました。
大村智らが開発したイベルメクチンは、現在も多くの人々を救っています。
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引用:山梨近代人物館
小宮山清三(こみやませいぞう)は消防団の普及に尽力し、「消防の父」と呼ばれた人です。
小宮山清三は、1880年6月27日に山梨県中巨摩郡西野村(のちの南アルプス市)で長谷部家の次男として誕生します。
1893年には、池田村(のちの甲府市)にある小宮山家の養子となるのでした。
小宮山清三は池田村の村長や山梨県会議員、議長などを歴任。
大日本消防協会常議員理事に就任すると、民間の消防団を全国的に普及させるために全国を飛び回りました。
小宮山清三の詳細はこちらをクリック▶︎山梨近代人物館公式サイト
引用:山梨近代人物館
内藤多仲(ないとうたちゅう)は、「耐震構造の父」と呼ばれた日本の建築家です。
東京タワーや名古屋テレビ塔などの多くの鉄塔の設計を手掛けたことから、「塔博士」とも呼ばれていました。
内藤多仲は、1886年6月12日に山梨県中巨摩郡榊村(のちの南アルプス市)で誕生します。
東京帝国大学在学中に建築学を学び、卒業後は早稲田大学の教授に就任。
1917年から1918年までアメリカに1年留学し、帰国後の1924年に「架構建築耐震構造論」を発表して博士号を取得します。
内藤多仲はこの耐震構造論を使って、数々の耐震壁付きの建物を設計したのです。
内藤多仲が設計を手がけた東京タワーをはじめ、多くの鉄塔は今もなお私たちの暮らしと密接に関わっています。
内藤多仲の詳細はこちらをクリック▶︎山梨近代人物館公式サイト
今回は山梨県出身の偉人を5人紹介しましたが、山梨県にはまだまだたくさんの偉人がいます。
私たちがよく知る有名人の中にも、山梨県出身の方がたくさんいるかもしれませんよ。
現在私たちが豊かに暮らせるのも、たくさんの偉人の努力のおかげなんだな、と改めて実感しますね。
これを機に、あなたの出身地にゆかりのある偉人を調べてみてはいかがでしょうか。
自分の故郷がより愛おしく感じられるでしょう。